2018年02月27日

鎮守の白梅も綻び初めた

立春が過ぎても寒い日が続いていたが、やっと八幡神社の白梅がほころび始めた。
縮景園の梅見茶会も開かれたという。
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posted by bremen at 13:54| Comment(0) | 日記

2017年06月19日

「海を越えて郵便を届ける」(2)

たった一度の事前発進試験

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5万総トンの新造スーパーライナー「ブレーメン」は試運転も完了し、1929年7月5日に北ドイツロイドに引き渡されたところであった。
カタパルトの取り付け工事が終わる頃、ハインケルは主任技師のシュヴェルツラーとテストパイロットのシュタルケとブレーマーハーフェンに向かった。
繋岸状態で行うカタパルト発進試験を行う7月8日(月曜日)は快晴であった。
右舷を接岸している「ブレーメン」のサンデッキレストラン屋上中心線上に取り付けられた長さ27メートルのカタパルトは左舷前方11時の方向に向けられ、郵便機HE12はクレーンで滑走台の上に持ち上げられていた。
「ブレーメン」の機関室にはコンプレッサが設置され、後部煙突のなかを高圧エアパイプがカタパルトまで配管されていた。
シュヴェルツラーがカタパルトの操作にあたった。スタート索を張り準備が出来たことをHE12操縦席の赤ランプ点灯で知らせる。テストパイロットのシュタルケがライトで「発進!」のシグナルを出すとシュヴェルツラーがレバーを引きスタートさせる。
圧搾空気が轟音を立てて噴出すると郵便機が射出された。
この射出で船上での振動は殆ど感じられなかった。

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実際の郵便飛行で操縦することになるルフトハンザのパイロット、フォン・シュトゥトニッツは一連の動作を習得するために後部座席に着座していた。
詰めかけた報道陣のためにシュタルケは上空を旋回し、本船の傍に着水した。
この日は運輸省の上級行政官アドルフ・ベウムカー(Adolf Baeumker)、ルフトハンザからは役員エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch)、水上機部門の責任者ハンス・シラー(Hans Schiller)、それに曲芸飛行で有名な女流飛行家テア・ラッシェ(Thea Rasche)など所轄官庁の高官、ルフトハンザの幹部、それに多くの報道関係者が招かれていた。

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写真は向かって左から、運輸省のベウムカー行政官、ルフトハンザのシラー氏、エルンスト・ハインケル博士、同マイダ夫人、テア・ラッシェ嬢、ルフトハンザの操縦士シュトゥトニッツ男爵、ハインケルの主任技師シュヴェルツラー氏である。

テア・ラッシェは1899年生まれで1925年に航空ライセンスを取ったドイツ2人目の女流パイロットで欧州だけでなく合衆国でも曲技飛行で活躍した(1971年没)。
余談ながらテア・ラッシェはドイツで有名な女流飛行家のようで、フランクフルトにテア・ラッシェ街路(Thea-Rasche-Straße)、フロイデシュタットにテア・ラッシェ小路(Tea-Rasche-Weg)、ベルリンにテア・ラシェ通り(Tea-Rasche-Zeile)と彼女の名前を付けた地名がある。

ホルマンの著書に掲載されているこの写真は発進テストの前に撮影されたのだろうか?







posted by bremen at 18:15| Comment(2) | 海を越えて郵便を届ける

2017年06月17日

「海を越えて郵便を届ける」(1)

水上機用カタパルト

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第一次世界大戦に敗れてドイツは航洋船舶のすべてを連合軍側に接収された。航洋船舶だけではない。ヘルゴラントに海水浴客を運んでいた800総トン未満の「グリュースゴット(Gruessgott)」まで戦時賠償に取られていた。
しかし幸運なことにダンツィヒにあったシーヒャウ造船所(F. Schichau, GmbH. Werk Danzig)で工事中断となっていた3万総トン級客船2隻のうち未だ船台上で二重底が組み上がった状態であった二番船は賠償を免れた。この船に、賠償に取られてホワイトスター・ラインの「ホメリック(Horeric)」となった一番船に付けられる筈であった「コルンブス(Columbus)」と命名して北ドイツロイドがニューヨーク航路に就航させた。
「コルンブス」は戦前の設計で主機は三連成蒸気機関のため最高速度は20ノットに満たなかったが長い建造期間中に船内配置や内装デザインに注力したせいか就航後の営業成績は順調であった。定期航路を運航するためには同じクラスの船が必要となった。北ドイツロイドは3万5千総トン級の新造船を2隻建造することになった。
ハンブルクのブローム&フォス造船所(Blohm und Voss GmbH)とブレーメンのデシマーク(Deschimag-Werft)社ヴェザー造船所(AG "Weser")に発注され、その直後に約5万総トンに拡大されたのがスーパーライナー「オイローパ(Europa)」と「ブレーメン(Bremen)」である。
両船は造船所も異なり主要寸法も総トン数も異なるが姉妹船として扱われることが多い。上部構造前面の美しい曲面、太く短い2本煙突、フレアの付いた船首のファッションプレート、その下バルバスバウなどが共通のイメージとして語られることが多いが、上部構造前面に配置された窓は「ブレーメン」での双連に対し「オイローパ」では四連窓であり、煙突の断面形状も頂部の傾斜も両船で微妙に異なる。船首のフレアも「ブレーメン」の方が心持ち傾斜が大きい。
これらの違いは北ドイツロイドが造船所に見積を依頼したときに提示した一般配置図をベースに造船所なりに詳細展開したことによる。
このスーパーライナーの航走中に水上機を射出して郵便物を目的港にいち早く届ける計画が持ち上がっていた。このアイデアを提起したのは船主ではなく、ドイツ運輸省と航空網を展開しつつあったルフトハンザであった。
北ドイツロイドは2隻の大西洋横断航路用スーパーライナーを同時に完成させて同時に大西洋航路に就航させようと目論み、このため進水式は計画通り一日違いで挙行されたが労働者のストライキと岸壁で係留中の出火のために「オイローパ」の竣工は数ヶ月遅れて1930年の3月となった。
「ブレーメン」が初めての海上試運転に出港する直前の1929年6月にヴァルネミュンデのハインケル飛行機製作所(Heinkel Flugzeugwerke)からコルンブス岸壁に圧搾空気で小型飛行機を射出するカタパルトと小型水上機が送られてきた。コルンブス岸壁とは客船「コルンブス」就航に間に合わせるべくブレーマーハーフェンに建造された繋船岸壁であるが「コルンブス」の就航には間に合わなかった。
ハインケル飛行機製作所では1925年に在独日本大使館付海軍武官小島大尉に航行中の艦艇から水上機を発進させる装置の開発を依頼され、翌年試作装置を作ってテストを行っていた。
ハインケル(Ernst Heinkel)は主任技術者シュヴェルツラー(Karl Schwälzler)、テストパイロットのビュッカー(Bücker)を連れ、発進装置から発進させる複座複葉水上機He25を横須賀軍港に持ち込んで日本海軍の主力艦「長門」の第二砲塔上から発進テストに成功した。
帰国して最初のK1型カタパルトはハインケルからドイツの海軍に納入され1928年晩夏までテストが行われた。

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軽量アングルで組んだカタパルト本体を旋回させる機構、その短いレールの上で急速に架台を加速させる圧搾空気シリンダー、その圧搾空気が爆発的に噴出しないような制動心棒など基本的な技術が確立されていた。
ブレーマーハーフェンの「ブレーメン」に送られ装備されたのはK2型カタパルトで、郵便機はHE12である。
ハインケルは「K2とHE12を造るのに半年とはかからなかった」と自伝「嵐の生涯」で述べている。HE12は1929年から海軍用に十数機製作した偵察機HE9をベースにした低翼単葉双浮舟の単発複座で、暴露型の前席が操縦席、後席にはメカニックを兼ねた通信士が乗り、その後部胴体に郵嚢を積み込むようになっていた。
エンジンはプラット&ホイットニーの星形9気筒450馬力、翼幅は16.80メートル、全長は11.56メートル、高さ4.55メートル、翼面積48.46平方メートル、載荷能力は200キログラムの郵便物で発進状態の重量は2.6トン(ハインケル社製造番号334号機)である。
最高速度は時速216キロメートル、巡航速度は時速180キロメートル、航続距離はおよそ1800キロメートルである。
K2型カタパルトの射出重量は3.5トンであった。

posted by bremen at 14:37| Comment(0) | 海を越えて郵便を届ける