
ハインケルと、彼の開発した水上機用カタパルト
洋上の船舶から飛行機を射出するカタパルトのアイデアは以前からあったが、実用化したのはハインケルであり、彼に開発を依頼したのは日本海軍であった。
第一次大戦で飛行機は急速な進展を見せたが車輪による降着装置を持つ陸上機は浮揚速度まで加速するための滑走路を要し、水面から飛揚する飛行機は胴体を艇体にした飛行艇にするか、或いは水面を滑走する浮舟をつけた水上機にするしかなかった。
偵察や弾着観測のために戦艦や巡洋艦に水上機を搭載した場合、デリックで艦上から洋上に降ろし、揺れる水面上で発動機を指導せねばならなかった。
1925年初め、駐独日本大使館付武官小島海軍大尉がハインケルを訪ねてカタパルト(当時、まだこの呼称はなかった)の開発を要請したのである。
その年の6月にハインケルは事務所の傍の河畔に組まれた鉄骨の上からハインケルHe25複葉水上機の射出に成功した。
同年8月、ハインケルは北ドイツロイドの客船「コルンブス」で大西洋を渡り、ヴァクーヴァーから「エンプレス・オブ・ロシア」でアリューシャンまわりで訪日した。
戦艦「長門」に取り付けられたカタパルトからHe25の射出に成功したあと日本国内を三週間にわたる観光旅行に招待されたあと帰国している。この間、名古屋の愛知時計電機も訪問し、後に愛知とハインケルの技術交流の基礎ができた。
後にドイツ海軍が同陸軍と共同で飛行艇を射出するカタパルト(K1型)を発注した。
「ブレーメン」の竣工前に取り付けられたのはK2型カタパルトである。
艤装中の火災のために竣工が遅れた「オイローパ」に設置されたものは改良されたK3型である。
参考ながら後日、飛行艇の大西洋横断を中継するためのカタパルト船「ヴェストファレン(Westfalen)」に設置されたものはK6型、「シュヴァーベンラント(Schwarbenland)」に設置されたのはK7型、「オストマルク(Ostmark)」に取り付けられたものはK9型、「フリーセンラント(Friesenland)」に設置された最後のカタパルトはK10型であった。
これらはそれぞれに射出重量が増えK9型、K10型は15トンになっていた。
「ブレーメン」や「オイローパ」など、当時の北ドイツロイド定期客船から郵便機を発進するサービスについてデモンストレーションの意味合いが強かったとか、コストが掛かりすぎるから途中で止めたとか見聞することがあるが何れも正しくない。
客船にとって最も重視されたのは郵便物であり、海運各国では郵便物を定期的に届けることで運航会社に少なからぬ補助金を支出している。日本郵船もイギリスのキュナードもしかりである。
北ドイツロイドのスーパーライナーから郵便機の射出をやめたのは、より大型の飛行艇が洋上で中継し再発進できるようなカタパルト船の運用が出来るようになったからである。「オストマルク」に設置されたK9型カタパルトは15トンを射出することが出来、「フリーセンラント」のK10型とともに、南大西洋での運用のあと1938年からはルフトハンザの北大西洋郵便飛行に従事した。
このためスーパライナーによる郵便飛行は飛行艇にその役目を譲ったのである。
飛行艇による郵便飛行は長距離輸送機「コンドル(Fw200)」の就航まで続けられた。
ハインケルはK2型カタパルトから発進する単葉複座双浮舟の郵便機He12も設計した。He12という型番は付いているが製造されたのは「D1717」一機のみである。
前回述べたように郵便機の運航にはルフトハンザがあたった。
最初に「ブレーメン」に派遣されたのは操縦士のシュトゥドニッツ(Joachim von Studnitz)とメカニック兼務の通信士キルヒホフ(Karl Kirchhoff)であった。
見出しの写真はドルニエの飛行艇Walを発進するカタパルト船「フリーセンラント」である。