
5万総トンの新造スーパーライナー「ブレーメン」は試運転も完了し、1929年7月5日に北ドイツロイドに引き渡されたところであった。
カタパルトの取り付け工事が終わる頃、ハインケルは主任技師のシュヴェルツラーとテストパイロットのシュタルケとブレーマーハーフェンに向かった。
繋岸状態で行うカタパルト発進試験を行う7月8日(月曜日)は快晴であった。
右舷を接岸している「ブレーメン」のサンデッキレストラン屋上中心線上に取り付けられた長さ27メートルのカタパルトは左舷前方11時の方向に向けられ、郵便機HE12はクレーンで滑走台の上に持ち上げられていた。
「ブレーメン」の機関室にはコンプレッサが設置され、後部煙突のなかを高圧エアパイプがカタパルトまで配管されていた。
シュヴェルツラーがカタパルトの操作にあたった。スタート索を張り準備が出来たことをHE12操縦席の赤ランプ点灯で知らせる。テストパイロットのシュタルケがライトで「発進!」のシグナルを出すとシュヴェルツラーがレバーを引きスタートさせる。
圧搾空気が轟音を立てて噴出すると郵便機が射出された。
この射出で船上での振動は殆ど感じられなかった。

実際の郵便飛行で操縦することになるルフトハンザのパイロット、フォン・シュトゥトニッツは一連の動作を習得するために後部座席に着座していた。
詰めかけた報道陣のためにシュタルケは上空を旋回し、本船の傍に着水した。
この日は運輸省の上級行政官アドルフ・ベウムカー(Adolf Baeumker)、ルフトハンザからは役員エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch)、水上機部門の責任者ハンス・シラー(Hans Schiller)、それに曲芸飛行で有名な女流飛行家テア・ラッシェ(Thea Rasche)など所轄官庁の高官、ルフトハンザの幹部、それに多くの報道関係者が招かれていた。

写真は向かって左から、運輸省のベウムカー行政官、ルフトハンザのシラー氏、エルンスト・ハインケル博士、同マイダ夫人、テア・ラッシェ嬢、ルフトハンザの操縦士シュトゥトニッツ男爵、ハインケルの主任技師シュヴェルツラー氏である。
テア・ラッシェは1899年生まれで1925年に航空ライセンスを取ったドイツ2人目の女流パイロットで欧州だけでなく合衆国でも曲技飛行で活躍した(1971年没)。
余談ながらテア・ラッシェはドイツで有名な女流飛行家のようで、フランクフルトにテア・ラッシェ街路(Thea-Rasche-Straße)、フロイデシュタットにテア・ラッシェ小路(Tea-Rasche-Weg)、ベルリンにテア・ラシェ通り(Tea-Rasche-Zeile)と彼女の名前を付けた地名がある。
ホルマンの著書に掲載されているこの写真は発進テストの前に撮影されたのだろうか?
南十字星時代では大いに学ばせていただきました、メールを交換したような記憶もあるのですが定かではありません。
とりわけNDLトリオの記事には興味津々です。今後ともよろしくお願いいたします。
飛行船の方ですが、郵船が持ち込んだ飛行船に試乗で乗ったことがあります。
北ドイツのスーパーライナー「ブレーメン」「オイローパ」は、世間で郵便機搭載の客船として認識されている要ですがNDLは航空省とルフトハンザに押しつけられて渋々載せていたらしいのです。
その辺りを調べているところです。
しばらく放置状態だったのですが月が変わったので少しずつ掲げて行こうと考えております。